2012年8月24日金曜日

姫スイレン開花

 皆様はじめまして、オリゾンの夏堀と申します。

 植物好きでハーブ、野菜、ミニ盆栽そして姫スイレンを育てています。

 
 姫スイレンは、スイレンの中でも小型の品種で、6月から10月まで3~4㎝のかわいらしい花が
 
 咲きます。スイレンと聞くと育成が難しいイメージがありますが、姫スイレンは小型の品種なので

 池や大型の水槽がなくてもOK! 水をはることが出来るものであれば、プランターや金魚鉢、お

 茶椀など小型でスペースを為色々な場所で育成できますよ。室内でも半日以上日のあたる場所

 であれば育てる事が出来ますので、出窓や縁側などでオシャレでかわいい小さな姫スイレンを

 飾ってみてはいかがですか? 

 
 私は姫スイレンを育てて3年目ですが、今年もかわいい花が咲きました v(^。^)v








午前10時30分、つぼみがふくらんできました。









さらに30分後、つぼみが開いてきました o(^-^)o

          

                         小さな蜂さんも遊びに来てくれましたよ♪♪  他の姫スイレンの株は、初めての株分けで小さくし過ぎたのか、咲く気配がありません (T_T)
でも、来年に期待ですね q(^O^)p 

2012年8月16日木曜日

長宗我部 元親

こんにちは!

今回は前回に引き続き 長宗我部 元親 の後半です。

四国統一のエピソードから晩年をご紹介したいと思います。

四国統一へ

土佐統一後、元親は四国統一へ向け阿波(徳島)・讃岐(香川)・伊予方面(愛媛)へ

進出しはじめます。

阿波・讃岐には畿内の勢力争いでで信長に敗れた三好氏の勢力があり、元親は

信長と結び、三好氏攻略に乗り出します。

当初は、知勇兼備で元親を助けてきた実弟の吉良親貞が病死するなど、思うように

事が運びませんでしたが、戦や諜略で徐々に三好家や周辺勢力を追い詰め1580年

頃には阿波・讃岐方面をほぼ掌握しました。

一方、伊予方面では指揮官の久武 親信(ひさたけ ちかのぶが)戦死するなど苦戦しながら

攻略を進め、残るは伊予中部の河野氏だけ・・・というところでしたが、中国地方の雄

毛利氏が河野氏の援助をしたため伊予攻略は長期化することに。

更に・・・毛利だけでもやっかいな上に今度は、元親の躍進を脅威に感じたのか

友好的な関係だった信長が無理難題を押し付けてきて対立することに!






 ちなみに信長は元親のことを「鳥無き島の蝙蝠」 などと

小バカにしていたようですが、長宗我部の急な勢力拡大に

少し危機感を感じたんでしょうか。







そして1582年5月、信長は長宗我部討伐の軍を整え元親は絶対絶命のピンチに陥ります。

しかし!明日にでも開戦という6月2日に明智光秀による、かの有名な本能寺の変が起こった

のです。

もともと元親の奥さんは明智光秀の重臣・齋藤利三の妹で、光秀は信長に長宗我部との

外交を任されていました。元親との友好的な外交を目指した光秀でしたが、信長の急な

心変わりによる長宗我部征伐により面目丸つぶれになり、本能寺の変を引き起こした

心理的要因の一つとして挙げられています。

本能寺の変で信長が死ぬと長宗我部討伐軍は解体され、元親は再び勢力拡大を図り

信長の援助を受けて再起していた三好の残党を破り、再び四国統一まであと一歩まで

迫ります。 その頃、信長の後継争いが秀吉と柴田勝家により繰り広げられ、元親は

柴田勝家に味方し秀吉が送りこんできた軍を破ります。その後も秀吉と対立した徳川家康

などに味方し、秀吉とは争う構えをみせる元親。ここで秀吉に付かなかったのが運命の

分かれ道だったのでしょうか。

四国制圧

四国統一まであと一歩と迫った元親ですが、毛利の援軍と援助を受けて粘っている伊予の

河野家の攻略に手間取っていました。 しかし、1584年12月頃、苦しめられながらも毛利軍を

撤退させ河野家を降伏させます。翌年には周辺の豪族なども降伏させ、ついに四国制覇を

成し遂げました!!

しかし・・・喜びも束の間、次なる危機が元親に訪れます。

秀吉に降伏

1585年春、柴田勝家、徳川家康らを退け、信長の後継者としての地位を確固たるものにした

秀吉は何かと敵対していた長宗我部を討伐すべく、弟の羽柴秀長を総大将とした10万超えの

軍を編成し、宇喜多秀家、毛利勢の小早川隆景・吉川元長、そして弟の秀長と3方向から

同時に四国を攻めます。

当初は抗戦していた元親ですが、さすがにこれに敵う術なく諸城を攻略され、当時拠点として

いた白地城(徳島県三好市池田町白地にあった城)まで迫られると、家臣の谷忠澄(もともとは

神社の神主でしたが元親に取り立てられ、以後は政治・軍事を問わず手腕を発揮した名臣)の

進言もあり秀吉に降伏し、土佐一国のみ安堵され臣下として臣従します。

統一した直後の出来事でしたので・・・元親もさぞ悔しかったでしょうね。

嫡男の死


元親の後継ぎ候補は4人いました。その中でも長男の信親(のぶちか)は小さい頃から聡明で

家臣達からも評判が良く(元親とは大違い?)噂を聞きつけた織田信長から養子に欲しいと

言わしめた逸材。信親の「信」は信長から与えられた名前です。刀ももらったとか!

秀吉の軍門に下った元親は土佐一国の領地だけを安堵され、なんとか大名として生き残りました。

しかし・・・1586年、秀吉による九州の島津氏征伐が起こり、元親は嫡男の信親(のぶちか)と共に

九州征伐軍に加わります。そこで元親最大の悲劇が起きます。島津軍との戦い(戸次川の戦い)

で信親が22歳の若さで戦死してしまうのです。

若いながら死に際も見事だったようで、島津側の敵将からも手厚く葬られたそうです。

周囲からの評判も良く、しかも長身でイケメン!という非の打ちどころの無いこの嫡男に元親も

大いに期待していたようで、信親の戦死を聞いた際はその場で自殺をしようとした程です。

元親の落胆ぶりは半端ではなく、これを可哀想に思った秀吉が領土を増やしてやろうという

申し出も断ってしまいます。(信親の死で天下への夢も野望も潰えたようです)





 高知市、長浜の雪蹊寺(せっけいじ)

 にある信親の墓。









そして、信親の死を境に元親は覇気を失い、家臣団の争いや無用な粛清、跡目争い等を引き起

こし長宗我部家に暗い影を落とします。

その後

四男だった盛親に家督を譲り(その理由は信親の唯一の遺児の女の子を娶らせ、信親の

血を残すためには一番年齢の若い盛親が適任だと元親が考えた為です・・・そこまでするか!)

1599年、元親は秀吉が死去し政情が不安定な中、病気になり享年61歳で生涯を終えました。

後を継いだ盛親は・・・関ヶ原、大阪の陣で運にも見放され長宗我部家は滅亡することになります。

直接の原因ではないですが、信親が健在であれば違った結末になったのではないかと思います。

天下争いに加わるには生まれた時代が悪かったようですが、一度は滅亡した地方の弱小勢力

がここまでのし上がれたのは元親の才覚があってのことではないかと。

もう少し早く生まれていれば・・・生まれた場所がよければ・・・息子が長生きしていたら・・・

大河ドラマやってほしい!!

と思わせる元親でした。